「科学者はなぜ神を信じるのか」 著:三田一郎 を読んだ
「科学者はなぜ神を信じるのか」という本を読んだ。科学者は、というよりは物理学者は、というほうが適切な表現かもしれない。物理学者、なかでも神との関わりが深い宇宙論の進歩に貢献してきた科学者たちの研究を紹介しながら、彼らが科学と神にどのように向き合ってきたか、ということが書かれている。
また、ニュートンのは次のような逸話も残っています。
彼が腕利きの機械職人に注文して、太陽系の精巧な模型を作らせたことがありました。歯車によって惑星が動く仕掛けになっている、凝ったものでした。ある日、ニュートンの部屋を友人の科学者が訪ねてきました。彼は無神論者でした。テーブルの上に置かれた模型に気付いた彼は、惑星を動かしてみて、感服した様子でニュートンに尋ねました。
「実にみごとな模型だね。誰が作ったんだい?」
読書をしていたニュートンは、本から目を離さずに、こう返事をしました。
「誰でもない」
面食らった友人が聞き返します。
「おいおい、僕の質問がわからなかったかな。僕は、誰がこれを作ったのかと聞いたんだよ」
ニュートン、今度は友人の顔を見て、真面目な顔でこう答えます。
「それはだれが作ったわけでもない。いろいろなものが集まって、たまたまそうなったのさ」
友人は気色ばんで言い返しました。
「人をばかにするものじゃない。誰かが作ったに決まってるだろう。これだけのものを作るとは、かなりの腕前だよ。それは誰かと聞いているんだ」
ついにニュートンは立ち上がり、友人の肩に手を置いて、語りはじめました。
「これは偉大な太陽系を模して作った、単なる模型だ。この模型が設計者も製作者もなく、ひとりでにできたと言っても、君は信じない。ところが君はふだん、本物の偉大な太陽系が、設計者も製作者もなく出現したと言う。いったいどうしたら、そんな不統一な結論になるのかね?」(125ページ)
まず、特殊相対性理論やハイゼンベルクの不確定性原理などの科学者たちの発見が、とても分かりやすく書かれていたので読みやすかった。とても簡単に触れられているだけだが、つまりどういった理論なのか、ということがイメージしやすく、本書のテーマに適したかたちだと感じた。
私は神を信じてはいないが、これからもっとキリスト教のことを知れば知るほど深みにはまっていって抜け出せなくなってしまうだろう、という予感がする。歴史的にも、宗教的にも、そういった面白さをキリスト教はもっていると感じた。
また、本書は「~だから神は存在するのだ」と読者を説得することを目的としていない。
宇宙や物質のはじまりを研究している物理学者や、生命のはじまりを研究している生命科学者、つまり「神の仕業」とされてきたことを「科学」で説明しようとしている人たちでさえ、多くが神を信じているのです。これはもう、矛盾でしかない、と思われるのではないでしょうか。
この不思議を解き明かしていくことが、本書のテーマです。(16ページ)
いろいろ勉強すればするほど、わからないことが増えていく。科学で解明されていると信じていたものが、突き詰めていくと、本当は何もわかっていなかった、という経験を何度もした。本当に人間は、この世界について何もわかっていないんだと衝撃を受けた。そのようなタイミングで本書に出会えたのは、科学とは何か、といったことを考えるうえでいい刺激になったし、幸運だったと思う。
私が考える「神業」とは、永遠に来ない「終わり」ということができます。人間には神をすべて理解することは永遠にできません。しかし、一歩でも神に近づこうとすることは可能です。近づけばまた新たな疑問が湧き、人間は己の無力と無知を思い知らされます。だからまた一歩、神に近づこうという意欲を駆り立てられます。「もう神は必要ない」としてこの無限のいたちごっこをやめてしまうことこそが、思考停止なのであり、傲慢な態度なのではないでしょうか。科学者とは、自然に対して最も謙虚なものであるべきであり、そのことと神を信じる姿勢とは、まったく矛盾しないのです。(263ページ)
とても面白かった。